60年代のキャビンアテンダントの日常

23 May 17

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The Life Of A Sixties Air Stewardess - GLOBE-TROTTER

キャビン・アテンダント、ヒラリー・ファーリッシュがBOAC(英国海外航空)に入社し、旅の黄金時代を過ごしたことについて

私は1960年から9年間、「Swinging Sixties」と呼ばれていた活気あふれる60年代を、キャビン・アテンダントとして過ごしました。当時は多くの人が飛行機を利用していたわけではないので、とても魅力的な仕事と思われていました。若い女性からすれば、モデルの次にキャビン・アテンダントは皆が憧れる職業でした。

当時は興奮とロマンスを感じる空の旅の黄金時代でした。私はボーイング707のファーストクラスを担当し、ご搭乗の際には乗客16名の方々のお名前を憶えてお迎えしていました。

私は現在のヒースロー空港である、ロンドン空港を拠点に長距離のフライトを運航していました。 BOACは最終的にBA(ブリティッシュ・エアウェイズ)になりましたが、当時は空を飛ぶということは今と全く違うものでした。乗客はスマートな服装で、男性はかならずジャケットとネクタイを着用して礼儀正しく、クルーに対しても丁寧でした。私たちはシャンパン、キャビア、牡蠣、厚切りの牛肉などの料理を乗客にお出ししていました。

クルーが共通して行うことがありました。ひとつは、当時もっとも頑丈だったグローブ・トロッターのスーツケースを購入すること

キャビン・アテンダントになることは容易ではありませんでした。 1960年当時、BOACは応募者の2%のみを雇い、選考プロセスでは面接を2回行っていました。父は私が応募することに反対で、面接のために駅まで車で送ってくれなかったことを今でも覚えています。最終的には私がキャビン・アテンダントになることを父も受け入れ、喜んでくれました。残念ながら彼は一度も飛行機に乗ることはありませんでした。

キャビン・アテンダントになる前は看護と教育の仕事に関わっていましたが、若かったので世界をもっと見たいという気持ちがありました。BOAC入社後、3ヶ月間訓練を受けて突然クリスマスの日にニューヨークのフライトを担当しました。その後、シドニー、ボンベイ、フィジーなど、世界中を飛び回りました。良く周囲に何ヵ国に行ったか聞かれますが、正直多すぎて私も数えきれません。

当時は香港へのフライトは週2便しかなかったため、乗継に多くの時間を費やしていました。暇だったので、リラックスし車を借りて色々なところに行きました。キャビン・アテンダントとして働くということは、パーティーから次のパーティーへ行くようなものだと仲間と話すことさえありました。当時私達も若かったので、外出するのは当たり前に思えました。ニューヨークに行くと美味しいレストランがありましたが、昔は家の食べ物はかなりひどいものでした。一度スイス航空のキャプテンから連絡があり、その日お互いニューヨークに行くのであれば一緒に食事しようという誘いがありました。私も偶然ニューヨーク勤務だったので、その日ニューヨークで待ち合わせしたのも覚えています。

クルーの行動で共通点がいくつかありました。一つは耐久性に優れているグローブ・トロッターのケースを買うことでした。もう一つは東京の高島屋デパートに行って電気湯沸しヒーター、そしてボトル・キャップを曲げずに開けるボトルオープナーを買うことでした。この特殊なボトルオープナーを使用すると、トニックウォーターとジン、またはジンジャーエールとウィスキーを差し替えて密封することができました。酒禁酒法があったボンベイでは役立ちました。

私はキャビン・アテンダントとして多くの冒険をすることができました。王室のフライトにも一度恵まれ、到着後クルー全員がサインを頂いた時は印象的でした。同時に、恥ずかしい場面も沢山ありました。ある時、仕事直前にパキスタンのカラチ・レストハウスでプールに投げ込まれる際、制服を着たキャプテンを引きずってしまいました。またある時は、私のミニ・ローバーで空港から家に帰る時に警官に止められ、制服を着ていたので「カイロから来た」と伝えた時にはとんでもないトラブルに遭いました。

現代社会では信じられないことかもしれませんが、当時航空会社は若い未婚の女の子を飛行機に乗せたかったので、キャビン・アテンダントとしての勤務は10年しか続けられませんでした。私は10年近く働きましたが、退職後にはティムと結婚して名前はヒラリー・デロ―に変り、タネットで農家の妻としての道を歩みました。

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